2009年9月16日 (水)

課題と自由意志

誰の人生にも課題がある。

そしてそれは偶然を装って常に目の前に呈示される。

しかしそれに取り組むかどうかは自由意思で決めることが出来るのだ。

例えば、誰か素敵な異性に出会う。

その人を好きになり、告白するかどうか悩む。それがあなたに提示された課題だ。

思い切って告白するか、しないかはあなたの自由意志だ。しかし、どう自由意志を使うかによって、あなたのその後の人生は変わる。

そういう課題と、自由意志の組み合わせで、人生はいかようにも変わる。

だから運命などと言うものはない。何ものにも支配されてはいない。人生は全く自由なのである。

ただ、課題は偶然ではなく何らかの目的を持っているからこそ提示されるので、「それに取り組んでみると、もしかしたらいいことあるかもよ?」と言う暗示であると言うことは、憶えておいた方が良い気もする。

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2009年8月 2日 (日)

魂の性格と肉体の性格

人の表に現れる性格と言うのは、二つの要素で形作られるのではないか?と言う説を思いついた。

第一の性格は、「魂の性格」。

人の本質は魂であり、それは肉体とは無関係である。だから、魂は遺伝しない。その意味で、魂同士を比べれば親子でも他人である。だから親子で性格が全く違うことは当たり前なのだ。

人の根本的な性格はこの魂の個性によって作られる。これは生まれながら、いや生まれる前から持っている個性だ。

もう一つの性格は、「肉体の性格」。

肉体に性格があるのか?と言うかも知れないが、言い換えれば利己的遺伝子による性格とでも言おうか。

肉体は魂の乗り物であるが、しかしこの乗り物はクルマのように単純ではない。この乗り物は自分で自分の複製を増やそうとする強い機能があらかじめそのOSに組み込まれており、主人である魂を、自分のその目的のために操ろうとする。

これが即ち、時として魂を迷わせる欲望や煩悩である。

男性が男性らしく、女性が女性らしくなりがちなのは、この肉体の性格によるものだ。そのパターン化された傾向は、遺伝子の単純かつただ一筋の「子孫を増やす」と言う目的のために発現する。

元来、魂には性別はないのではないか。どちらの肉体に乗ったかによって、その肉体からの影響を受けて、男性らしさや女性らしさが作られるのではないだろうか。

かくして、若い時、即ち肉体が元気な時は、どうしても操られてしまった結果のとしての「肉体の性格」が目立つのであるが、年をとる、即ち肉体がその目的を果たすことが出来なくなると、魂を操ることをしなくなる。

これ、即ち、枯れてくると言うことだ。

私はかねてから、年をとることで、「若い時より自由になった」と感じていた。

だがいったい何から自由になったのかと言われると、いまいち良く分からなかったのだが、要はそういうことだったのだ。

年を取ると、個性が強くなる。その個性はきっと、生まれる前から持っている自分本来の性格なのだ。だからそれは大切にしなくてはいけない。

年をとると、肉体の呪縛から解き放たれる。そのときこそ、自分が生まれてきた真の目的を魂が思い出し、自分の人生の本来の目的のために生きるべき時なのだ。

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2009年5月27日 (水)

人間は遺伝子の乗り物ではない

愛、強い思い、情熱。

それは測定することも出来ないし、目で見ることも出来ない。

しかし確かに存在して、それが人を突き動かし、ひいては世の中を動かしていることは事実である。

以前私は人間は遺伝子が乗り物として使っている肉体に過ぎず、人間の色々な衝動は、利己的な遺伝子に操られている結果に過ぎないと思っていたことがある。

しかし、最近私は、愛とか思いとか情熱とか、人間を突き動かすそれらのものは決してDNAの下等な衝動や脳の電流現象だけでは、それらが存在することは証明できないのではないかと考えるようになった。

何故人は音楽を聴いたり、映画を見たり、写真を撮ったり、踊ったり、本を読んだり、神に祈ったりするのだろう?

これらを遺伝子がさせているとは到底思えない。

つまり、「心」とはなんぞやと言うことだ。

ところで、こんな記事があった。

リンク:愛が時空を越えることが証明された?  Lifehacking.jp

離れた部屋にいるカップルの片方が、「愛情や深い気持ち」を相手に送ると、相手に血流の変化や誰かが耳元でささやいた時のような反応が現れたと言うのである。

「思い」と言うのは伝わるのだ。

ましてや一つ屋根の下にいる同僚や家族であれば、知らず知らずのうちにお互いに強い影響を与えているのだろう。

そこに風土や社風のようなものが生まれ、愛や思いが相乗的に高まった場所に、何か新しいものが生まれてくる。それが人が産み出す産業であり、芸術なのではないだろうか。

やはり人は、単なる遺伝子の乗り物ではないのである。

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2008年12月19日 (金)

部内忘年会

うちの部署はたった4人である。その4人でつつましやかに忘年会を催した。

久々に酔っ払って何を話したのかは良く憶えていないのだが、終始笑っていたような気がする。

「波長の法則」によれば、人はそれぞれの波長が呼び合って波長の近い人間が集まると言うのだが、それが本当だとすれば、自分の波長はきっと朗らかで前向きな良い波長なのだろう。

皆、本当に良いメンバーだ。会社にいて幸せを感じることはあまりない昨今なのだが、良い人達に囲まれていると言うことは、実に幸せなことだと思った。

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2008年11月 7日 (金)

スピリチュアルな疑問

今日の話は普通の人は引くかも知れない話である。つまりスピリチュアルな話である。

その1:
霊界はいったい何の目的でいつどこにどうやってできたのか?

人は死んでも無になるのではなく、何らかの存在として生き続ける。それを仮に良く言われる言い方に倣って霊と言うとしよう。

そして死んだら霊のいる場所、霊界に行くと言われているのだが、ではその霊界と言うのはいったいこの宇宙の中でどこにあるのか? そしてそれはどこにどのようにいつできて、どのように運営されている世界なのか?

その2:
この世への派遣は誰が命じるのか?

この世は修行の場であり、霊界にいる霊が自らを成長させるためにこの世に望んで生まれてくると言う。

そこで疑問なのだが、修行が足りない未熟である霊ならば、何故わざわざ現世で苦労しようなどと殊勝なことを考えるのだろうか?

霊界は現世と違って苦労のない世界ならば、未熟な霊ほど霊界に止まってのほほんと暮らそうと思うはずではないか?

と言うことは誰かに命じられて嫌々ながらこの世に生まれ出てきているのではないのか?

江原さん、そこんとこ教えてくれますか?

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2008年8月 4日 (月)

今生の課題

人は皆、それぞれの課題を解決するためにこの世に生まれてくると言う。

「課題」と言うと、どうもあまり良い印象がなくて、人生やっぱり修行なのか。とか、苦労しなくちゃいけないと言うことか、楽していてはダメなんだなとか思ってしまいがちである。

しかし、実は天から与えられる「課題」と言うのはそういうものではないらしい。

病気ばかりしていたり、貧乏だったり、異性関係で痛い目を見ていたり、そういう苦労をしている人は、それに耐えて何かを学ぶことが、与えられた「課題」なのかも知れない。

しかし一方では、何の苦労もせずに人生を楽しんでいる人もいる。

そういう人は何の課題も与えられていないのだろうか?

私が思うに、多分、「楽しむ」と言う課題もあるのではないかと思う。

きっと今生で何の苦労もなく楽しく生きることが出来ている人は、過去生において何らかの苦労をしてきたか、そうでなくても「人生を楽しむ」ことを学ばずに過ごしてしまった人なのだ。

そういう人は今生で「お前は楽しむと言うことを学ばねばならん」と神様に言われて生まれてきたのではないだろうか。

そう思えば、楽しむことに後ろめたさを感じることも無く、むしろそれが自分のするべきことであり、感謝の気持ちすら湧いてくるではないか。

さらに、人生を楽しむと言うのは、決して刹那的な人生を過ごすと言うことではないく、真剣に楽しまなくちゃいけないのだと言うことも分かる。

赤塚不二夫氏も、きっとそういう「人生を楽しむ」と言う課題を与えられてこの世に生まれ、見事それを全うしてあの世に帰ったのだと思う。

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2008年7月 3日 (木)

波長の法則

もしあなたが、「自分の部下にはろくなやつがいない」と嘆いているとしたら、それはあなたもそうだからである。

あなたが出会う人は、必ずあなたに似合った人であるからだ。

だから逆に、もしあなたが、「自分は部下に恵まれている」とか「うちの家族は良い家族だ」と感じているとしたら、それはあなたが良い人だからである。

自分はイイ線行っていると自信を持つと同時に、素晴らしい出会いに感謝して生きるべきだ。

人と人と言うのは、どうやらそうなっているらしいと言うのを、最近実感するのである。

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2008年5月29日 (木)

受信

今日は不思議な体験をした。

いつものように家を出て駅に行く道を歩く時には、まだ目覚めきっていない頭でぼーっとしているのだが、駅に着く直前頭に「Mさんは?」と言うのが浮かんだ。

会社の重要な行事が近々あるのだが、その来賓の一人として呼ばなくてはいけない人だ。 はて? Mさんに招待状は出されていたっけ?

会社について確認したらびっくり。その人に招待状を出すのが抜けていたことが分かった。気付かなかったら大変なことになっていた。

何かを受信していたとしか思えない。こういうことは前にも一度だけあった。

まだ若い頃だ。機器組み込みソフトの開発をやっていた時、夢の中でバグを見つけたことがあった。その時も翌朝会社に行ってソースファイルを開いたら、夢で見つけた通りの所が間違っていた。

これほど不思議な例では無くても、かなり前から直感と言うものを馬鹿にしてはいけないことに気付いている。

直感や衝動、なんとなく感じる。みたいなことは、決してたまたまや偶然ではなく、多くの場合何らかの意味を持ったメッセージである。

だから、それを無視せず、それに従ってみることが良いと思っている。

この直感と言うのは、某映画の中での「フォース」と言うものと同じかも知れない。

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2008年3月23日 (日)

スピリチュアルな道

昨日出かけた名残りでちょっと脚が痛かったりしたのであるが、今朝も晴れていたのでやはりでかけたくなり、鎌倉にちょっと行ってきた。

今日は無理をせず北鎌倉近くで円覚寺と明月院のみ。円覚寺でのんびり2時間ほど過ごした後で明月院を訪ねたのだが、ここには一昨年の夏に訪れた時以来生涯で2度目である。

この鎌倉石の石段が敷き詰められた参道。
実はここを歩いている時、不思議な感覚が湧き上がってきた。

明月院
明月院 道 posted by (C)TODO

何を感じたかと言うと、両側の紫陽花の木の芽と足下の石から何かのパワーが自分に注ぎ込まれるような感覚。

そして前にここを歩いた時に同じように感じたことを思いだしたのだ。

「ああ、あの時に自分はパワーをもらえたので、今まで頑張って来れたのかも知れない。そして今またここに来てパワーをもらっている。ここに今日来なければならなかったのだ。」

と感じたのである。

私にとってこの道はスピリチュアルな何かがあるような気がする。
特別な、不思議な道である。

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2007年12月18日 (火)

「問題」

仕事をしていたり、仕事でなくても生きてさえいれば、日々色々な問題が発生する訳であるが、これはどうやら、その人の身の丈にあった問題が巧い具合に発生するのではないか? と言う気がする。

例えばある同じポジションにいるとしても、能力の低い人がそこにいた場合はたいした問題が発生しなかったのに、能力の高い人がそそのポジションについた途端に、大きな問題が湧き上がるとか。

もちろん全てではないが、どうもそういう大きな原則が働いているような気がするのである。

これはおそらく、以前に書いた江原啓之氏の「チャンス」の法則の応用例であろう。

即ち、

問題がが発生したということは、「あなたにはそれを解決できる力がある」ということです。

問題がが起きたとき、「もし解決できなかったらどうしよう」「解決できないかもしれない」と不安に思う必要はありません。あなたには解決できるから、問題が発生したのです。

この世に偶然はありません。間違って起きる問題などないのです。

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