数日前の記事「地球外生命」に対して、サーモンさんから
人間は自然と進化して今の状態になったのでしょうか?
それとも人間のような生命を最初に創造した神がいたのでしょうか?
と言うコメントを頂いた。
これってまさに最近アメリカの教育界をまっぷたつに分けた「インテリジェント・デザイン」論争そのものを端的に表現した疑問である。
リンク: インテリジェント・デザイン - Wikipedia
今地球上にいる生物を作った原因は、いわゆるダーウィンの進化論と言われている。
進化論と言うのは、生物の進化は偶然の産物だとしている。
だが、精緻な生命のメカニズムのひとつひとつを見るにつけ、私達にはそんなものが果たして偶然に生まれるものなのだろうかと思えてしまう。
喩えて言えばだ。
ピアノの鍵盤の上を猫がでたらめに歩き回っているとしよう。
もし猫が何億回も鍵盤の上を歩き回れば、そのうちの1回くらいはものすごい名曲が偶然弾けてしまうに違いない。
とするのが進化論だ。
そんなことはあり得ない。名曲を弾くのは高度の知性を持った生物でないとできない。
とするのがインテリジェント・デザイン説だ。
そう喩えると、いかにも進化論の方がめちゃくちゃ言っているように感じる。
だから、最近アメリカの学校では進化論は絶対ではないとして、インテリジェント・デザイン説を教えるべきと言う一派が跋扈していた。
確かに進化論だけでは説明できない「ように感じられる」生命の不思議はある。
しかしだからと言って地球の生命を作った何か別の存在がいるとすることを学校で教えてしまうのは、やはり適当でないと思う。
何故ならばまずその「何か別の存在」と言うものの証拠は何もないこと。もしその「何か別の存在」が証明できたとしても、ではその「何か別の存在」はどうやって生まれたのか? と言う謎は残るので、問題が先送りになるに過ぎないからだ。
ただ、将来もしかしたらその「何か別の存在」と言うものが発見される可能性はあるだろうと私は思うのである。
地球外生命探査計画の強力な推進者であった故カール・セーガン博士は、著書「コンタクト」の中でSF小説の形を借りて、彼が考える「何か別の存在」を表現した。
彼は地球上の生命と言う狭い範囲ではなく、もっと広い範囲での「創造者」を科学的に発見するとしたら、それはどんな状況になるだろうと言うことを、あっと言わせるラストシーンでリアルに描いてみせた。
私達が「神」と言う言葉でしか表現できなかったものに、究極の科学はいつの日か別の方向から巡り会うかも知れないのだ。
最近のコメント