ウィキペディア
例えば、何でもいいが何かについて正しい情報を得たいと思ったらどうするだろう?
TVや新聞と言ったマスメディアがいかに信用できないものであるかは、昨今の不祥事が証明してくれた。
ではその分野の専門書を読んだり、専門家に聞くことが一番だろうか?
私は、仕事の上でその分野の専門家であるはずの公的機関の担当官に聞いたことが間違いであった経験をした。
いかに専門家であっても、一人の人間が書いたり言ったりすることは、かなりの確率で思いこみによる間違いが含まれている可能性が高い。しかも、立派な本であればあるほど、間違いが後で見つけられたとしても、それがて訂正されることは難しいだろう。
インターネットはどうか?
検索エンジンの進歩によって、情報の量と速さは他のメディアに比べることができない。
では、その質はどうか? 正しい情報が得られると言えるだろうか?
「インターネットの情報は当てにならない。どこの誰とも分からない人間が適当なことを書いているに過ぎない」
と言う人がいる。
確かにそれは一面正しいだろう。私自身もブログにいろいろなことを書くが、信頼性を得るためにあらゆる資料を調査してから書くなどと言うことは皆無である。実際、毎日適当に思ったように書き散らしているに過ぎない。
そんな私のブログを訪れた人が何かの調査に私の記事を参考にしたとしても一切責任は取れない。
「ウィキペディア」と言うインターネット上の百科事典がある。
これは一言で言えば「誰でも書いて良い百科事典」だ。自分が人に教えてあげられる何かの知識を持っていると思ったら、ウィキペディアにそのことについての記事を書くことができる。
そしてこれがウィキペディアの一番の特徴なのだが、誰かが書いた記事を他の人が自由に加筆修正して良いのだ。
前述したように、インターネット上のどこの誰が書いたか分からない記事の信頼性は全くない。
しかし、それを全世界の人がたちどころにチェックする仕組みがあるとしたらどうか?
たった一つの何かについての記事が、たちどころに全世界のそれに詳しい人々の目にさらされ、常にそれが修正され続けるとしたら・・・。
そこでもまだ危惧は生まれよう。
「修正する人もどこの誰だか分からない人がするのだから、結局信頼などできないのではないか?」
ある人がこんな実験をした。
ウィキペディアに、わざと間違いを含めた記事を書いてみたのだ。
そうするとその記事は半日も待たずに他の誰かの手によって正しく修正されたと言う。
悪意のある捏造が生まれるのは、必ずそこに利害が絡む場においてである。TV番組の捏造は、視聴率とコスト削減を至上命令とされる現場で生まれた。
一切利害関係のない者がインターネット上に何かの情報や知識を発信することの動機は、純粋に「自分の知識を役立てたい」と言う欲求のみである。
インターネットの世界には、既に実証された「オープンであることが品質に利益をもたらす」と言う法則がある。有名なオープンソースOSが世界最高品質のOSであると言う事実を例として挙げるまでもない。
そこにあるのは徹底した「性善説」である。そのことが私はすごくうれしく、またワクワクするものに感じる。
人の本質は善であり、人の役に立ちたいと言う欲求であり、その尊い本質を、旧来の権威や資本が自らの既得権を守るために「そんなものはないのだ」と信じ込ませてきたに過ぎない。
その呪縛が解き放たれる時がやってきたのだ。
ビル・ゲイツが若かりし頃に思い描いたに違いない理想社会が今訪れようとしていて、そのことが彼の帝国を滅び去らせようとしていることは皮肉ではある。
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