人生における学び
しばらくこんな話題ばかりで恐縮である。
数少ない読者がさらに離れる可能性は大きいと思うのだが、管理人がそんなことばかり考えていると言う状況なので必然としてそうなるのだから仕方ない。
つくづく、人生はやはり、学びのためにあるのだろうと感じる。
母の死によって、死と言うものがひとつ身近なものと感じられるようになった。身近と言うのは、いろいろな意味があり、すぐそばにあると言う意味でもあるし、大事なのは、あまり怖いと感じられなくなったと言うことだ。
若い頃は、「死」と言うものが無性に怖かった。死ぬと言うことは、今こうしていろいろ感じたり考えたりしている「自分」と言うものが消滅すると言うことであり、それを想像すると滅茶苦茶怖くなった。
だが、昨日書いたように、母の死で、死とは決して無になることではなくて、存在そのものは依然として有り、ただ状態が変わるだけだと言うことが感じられるようになった。
今まで抱いていた「死」と言うものへの感じ方が、かなり変わってきた。
人は誰でもいつかは死ぬ。
人生を長い間生きていると、その間に近しい人の死も多く経験し、その度にそこからなにがしかの真実を学び、それを重ねて行くと、だんだんと人の誰もの避けられない終着駅であるところの「死」と言うやつが理解できるようになっていくのだろう。
人生とは、「死」について理解を深めるための、長い教室なのかも知れない。
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コメント
ある日突然「死」と言う現実を突きつけられ、自分の身体半分をもぎ取られる様な実感を味わうと、「死」と言うのは決して遠いものではなく身近であり、「死」は恐怖ではないとずっと感じてました。
だから いつでも「死」を迎え入れられると言った私を否定し、そのことで TODOさんともチャットで結構、議論しましたっけね(^-^;)
ふと、そんなことを思い出しました。
あの頃とはまた違う考え方になってるのかも知れませんね(笑)
悲しいかな・・どんな出来事も人生の糧になってるのかも知れません。
投稿: EKO | 2007年2月13日 (火) 22時36分
>EKO
思い出しました。その時のチャット。いやお恥ずかしい。(笑)
EKOはこういう点に関しては、俺より遙かに早い時期にたくさんのことを学んでいたってことかも知れないね。
こういう点に関しては・・・だけどね。(爆)
投稿: TODO | 2007年2月13日 (火) 23時52分