横浜に国際空港があった?!
3日前の記事へのコメントで私の家の近くの根岸湾が飛行艇の基地だったと言うことを書いたら、昔作ったホームページに載せた、それに関する記事が確か残っていたはず。と思い出して探したらあった。
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「横浜に国際空港があった?!」
私の家の近くに根岸湾と言う、今は石油コンビナートと火力発電所に囲まれた入り江がある。休日には岸壁から釣り糸を垂れる人々や市営ハーバーから小さなヨットが練習に出ていたりしている。
この何でもない場所に、その昔、国際航路の巨大飛行艇の基地があったと言うのだ。
時は戦前の昭和15年。日航はこの根岸湾からサイパンやパラオへの南洋定期航路を就航させていた。使われていた機体は川西航空機製九七式飛行艇。軍用機から転用された機体の内部は高島屋によって豪華に内装が施され、旅客数は18名。「むら雲」「綾波」等の名前が付けられていた。
海に面した埋め立て地の先端には空港ターミナルビルが設けられ、全幅40mの巨大な飛行艇を12機も格納できる大格納庫があったと言う。
しかし、人々の夢でもあった南洋定期航路は太平洋戦争によって廃止され、終戦と同時に、残っていた飛行艇も廃棄された。現在はこの場所はさらに埋め立てられて、日本石油のコンビナートとなり、わずかにその敷地内に、終戦後に建てられた進駐軍のカマボコ兵舎が当時の名残を止めているに過ぎない。
今度根岸湾まで散歩に行った時には、ぜひとも岸壁に立って、私は思い浮かべるとしよう。
今まさに巨大な飛行艇が4機のエンジンから轟音を響かせ、白波を蹴立てて海上を進み、銀色の機体は朝日にきらきらと反射し、そしてゆったりと堂々と大空に浮かび上がる、その姿を・・・。
(参考文献:「浜・海・道Ⅱ -昭和30年頃の磯子-」横浜市磯子区役所発行」)
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上記の文章は1997年に書いたもので、今は進駐軍のカマボコ兵舎も取り壊されて、当時を偲べる痕跡は全くなくなった。そのかわり日石の敷地入り口にこんな石碑が建てられている。
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コメント
素晴らしいですね!二式大艇は、船の科学館に展示されてましたがボロボロでしたね。でも今は、きれいに塗装されて鹿児島県の海上自衛隊基地資料館に展示されてまいたよね。
大戦に負けていなかったら・・・と改めて思いました。
投稿: salmon | 2006年10月 4日 (水) 21時45分
>サーモンさん
詳しいですね!
もし大戦に負けていなかったら・・・・今はボーイングの代わりにKAWANISHIと言うブランドが世界の空を舞っていたのでしょうか?
投稿: TODO | 2006年10月 5日 (木) 00時15分
大戦に勝っていたら二式大艇が10機ぐらい残ってて、3機くらいは飛行可能に維持されてるんじゃないかな。中にはターボプロッポに改造されたのもあるかもね。
ヒルズ族の社長が零戦や飛燕を所有して飛ばしてたり、栄を専門にレストアする会社が厚木あたりにあったり、ムスタングの飛べるやつが世界に3機ぐらいしかなかったりと、そういう世界を私は想像する。
あと山下公園には記念館大和が係留されているものの、管理が駄目駄目でミリオタ達が嘆いているとか。
投稿: meza | 2006年10月 8日 (日) 14時50分
>meza
山下公園に大和が! でかすぎて邪魔だろうな。(笑)
ワイキキが江ノ島みたいになってサザエの壺焼きとか売ってたらヤダ!(笑)
投稿: TODO | 2006年10月 8日 (日) 15時45分