「特撮」の終焉
昨日の「宇宙戦争」でつくづく感じたもう一つのこと。
それは特撮もここまで来たんだなぁ。と言う感動である。
30年前の特撮と言えば、合成の合わせ目がバレバレだったり、壊される建物は明らかに模型だったり、飛行機を吊すピアノ線が見えてたり、ゴジラの中には人が入ってたり、そういうことは見る側にもいとも簡単に分かったのだけれど、それは言わない約束だった。見る側も寛大に歩み寄って初めてこの手の映画が成立した。
いや、そこまで遡らなくても、ちょっと前までは、「良くできたCGだなあ」と感心すると言う、CGであることがまだバレバレの映像だった。「ターミネータ2」の液体金属人間などはそれを逆手に取った傑作として別格だが。
今は映画の中と言う仮想世界がまるごとデジタル空間で産み出される。
日々進歩するデジタル技術によってその産み出される映像の質は極限まで到達し、もはや映画の中にあるものは人であれ風景であれ機械であれ宇宙人であれ、撮影されたものと作り出されたものの区別は絶対につかない。と言うよりも、その区別をつけること自体が無意味になってきているのだろう。
一昔前にハリウッドで大金を投じて作られていたレベルのCGアニメーションは、今家庭用ゲーム機の中で日々作り出されている。いみじくもルーカスは、「デジタル技術のおかげで映画はハリウッド資本から解放されて、パーソナルなものになる」と言っているが、近い将来はこの程度の映画は家庭のパソコンの中で産み出され、インターネットを介していつでも自由に見れるようになるのだろうか。
そうなるかどうかは分からないが、デジタルな作り物が究極のリアリティを完成した、「宇宙戦争」と言う映画を見て、「特撮」とか「SFX」と言う言葉自体が、既に意味をなさなくなってきたと言うことを痛切に感じるのだ。
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